「友達だから、家族だから」といった言葉を見聞きすると、意図を探るほど真綿で締められるような感覚に陥る。
もしも当人たちにそう言ったら、驚きながらも話を聞いてくれるだろうか。
それとも弁論の余地も与えられないまま感情を昂らせて、一方的に捩れるだろうか。
仲を否定する意図ではなくて、ただ素朴な疑問が小さな違和感を生んで、息苦しさがまとわりつく。
相手に何かを伝えるために、当事者以外の意志が反映された一般論を背負う名前が敢えて必要なのか、
その便利さに頼って疎かにされているものがないか、と。
つまり、もしも「大切だ」と伝えたいのなら、それをこそ言えばいい。
それを言わなければ、伝わらないこともある。
関係を表現する言葉は、それを特別に思うほど眩しくて、誇らしくて嬉しくてつい言ってみたいのかもしれない。
あの人は自分にとっての〇〇、あの人は自分の〇〇、あの人は〇〇なのだと。
そんなふうに言葉で縛ったところで、
期待通りの関係が自動的かつ永続的に築けるわけはなく、
ましてや存在を独占できることもない。
人生の豊かさは予め用意されたスタンプラリーの空白を埋めることではないはずで、
「この呼び名に当てはまるべき存在にいつか会える」と希望や焦燥に踊らされ、
獲得したり喪失したりの勘違いを繰り返しては徒労することに、何か実りがあるだろうか。
いつか自分が発し続けた言葉に思考を乗っ取られて、
他者との関係を無意識に操作される危うさを思うと辟易する。
だからいっそ願望を託された呼び名なんて曖昧に、
「大切で、心地よくて、また会いたくて、いつか話してみたい」
そんな捻りのない表現が、意外とちょうどいいのかもしれない。
照れくささなんて、不本意な齟齬を思えば小さな障壁に思える。
一言で早計に方向付けたくない、そんな関わり方をいつからか心地よく思う。
実態の不確かさが不安でならなかったこともあるのに、今は寧ろ多少曖昧にしておきたい。
お互いによく知らない状態で名前だけが先行すると、
どうあればそれに相応しい関係になれるのか、つい頭から入って楽しむ余地をなくしてしまう。
余計な先入観にとらわれず、子供の頃のように「それ、何してるの?」と衒いも打算もなく始まり、手探りで積み重ね、成ったなりの形でいい。
複雑で多面的で掴みどころがないのに、続けるにはえもいわれぬ自信がどこかにある、
そんな風になれたらやっぱり名付けるには惜しいと思うだろうか。
それならそれで、必要ないだろう。
願いを託された名前は、勇気のようでも圧力のようでもある。
名前を笠に何を言っても何をしても許されるわけはなく、
何を言わなくても何をしなくても伝わるわけでもない。
込められた多種多様な意思に惑わされることも縋ることも押し付けることもなく、相手と自分との間でひとつひとつ確かめ合って、伝わるように伝えていくものだと思う。
その関係をどんな名前で呼ぶとしても、あなたは私の何者でなく、私もあなたの何者でもない。
縫い止める術も謂れもなく、自分を寄る辺にそれぞれの道を行き、
惹かれるものがあるならいずれきっと巡り合わせがある。
その時は、また子供の頃のように無垢にゆっくり話をしたい。
「それ、何してるの?面白そう、一緒に見ててもいい?」
そんなふうに。