やる気とか元気とか熱を可視化することに長けていなくて、
子供なのに可愛げがない
若いくせに元気がない
何を考えているのかわからないと、
察するに恐らく「どう接したらいいのか分かりづらい」と人を困らせ、
「どうぞご自由に…」と困惑してきた。
今でこそようやく自他に不快や無理の少ない方法を覚えたけれど、
稼働燃料に情動を使うことは相変わらず苦手だし、苦手なままでいいと思っている。
感情なんて人によって質量のはかり方が違うものに委ねて暮らそうものなら、
私が持つエネルギー製造機のスペックでは消費量に対して生成が追いつかないからだ。
限りある資源、節約するのは世の常だろう。
元気かと問われれば体質に合わせた無理のない平静さで、
やる気があるかと問われれば、いつだって真剣だ。
何を考えているのかわからないとぼやかれれば、他人同士だもの当然ですよと考えている。
仮にそう口にして返されるであろう捨て台詞に直面すると、
うっかり落ち込みそうになるけれど、
「そりゃそうだ」と皮肉を笑いとばしてくれる人もいる、その事実に目を向けていたい。
ポジティブでもネガティブでもなく、±0くらいの省エネ思考が、この性質にはちょうどいい。
「子供らしく、新人らしく、女らしく振る舞いなさい」
そう言われるたび疑問と反発心で壁を築いては距離を取り、
計測可能な範疇に収まらないことが不安なのかと心中冷たく燃えながらも為す術を持たず、
「わかったのか」と困らせては、こちとら自我を見失うまいと必死だった。
諭す側にとっては「互いに過度な気遣いをしなくて済むよう、歩み寄るのも大事だ」と意図しての発言だったのだろうか。
だとしたら「らしさ」なんて、名目だけが一人歩きする割に実態は多種多様で無理難題、
そんな既成型を前提にした意思疎通は、やっぱり的外れのように思う。
曲がりなりにも言い換えるとしたら、こんなふうでどうだろう。
「もしも他者との関わりに小さくつまずいて、落ち込みながらも譲れないものがあるなら、
虚像すぎず実態すぎず、伝えたいことを伝わりやすく表現する術があれば、君自身が楽かもしれない」
新しいことを始めるにしてもそうでないにしても、
期待や希望が飽和状態な眩しい雰囲気にあてられる、この季節が昔から苦手だ。
一枚薄布をかざしていないと、思考と感情がオーバーヒートして焼き切れそうになる。
怠惰や狷介ではなく至って真剣で長期的な省エネ戦略、
為す術なかった自分のために、堂々開き直って綴っておく。
自分を捻じるような方向に努力しなくていい。
走らなくていいし、みんなと手を繋げなくてもいい。
マイペースと揶揄されても、自分の歩幅を把握して維持できることもまた、稀有な能力だと思う。
それでも他者との関わりに悩むのなら、無理をしなくてもいい方法を探そう。
万事を解決できる共通の魔法はなくても、
拍子抜けするほどそばにあって当たり前のように続けてきたことが、味方になってくれることもある。
私にとってのそれは、纏うことと書くことだった。
焦燥でも惰性でもない「ちょうどいい」が、きっとある。