他人と全く同じ条件下で生きることは叶わなくて、
比較することに意味がないことも、 「どうしよう?」と訊く頃には選択が決まりつつあることも、きっとぼんやり自覚がある。
それでも何か決断をするときに、自他を比較しては小さな違いを見つけ
「やっぱり私とは違う」と安堵するなり踏み出す足を自ら引っ張るあの行為に、親しみやすくて的を射た、それでいて勇気を妨げない、そんな愛称をつけたい。
そうしたら、悩みを複雑に長期化させる自傷にも似た優しさも、冷淡に映る合理主義の正論めいた生真面目さも、
ひとまとめに易々と跳ね除ける快活さと単純さでただただ一緒に笑いながら、
「ほらほら、◯◯ってるよ!」と背中にそっと手を添えられるだろうか。
もらったりあげたり、大げさな気持ちを残したくないなと、歳を重ねるごとに思う。
「してくれたから」「してあげたから」と、選択を左右させるほど萎縮するのもされるのも、お互いに疲れるもの。
好意や役目の有無に関わらず、貸しも借りも優越も劣等も持ちこまず、芯で素直に感じることを、お互い蔑ろにしなくてもいいようにありたい。
優先の上位に自分を置くことは時々とてつもなく怖くて、いっそ誰かのせいにして「君のため」と恩着せがましく言ってしまえば、我慢と犠牲が美徳な文化圏から折り紙付きの賞賛を贈呈されるかもしれない。
だけど、”おもいやる”のと”おもねる”のは違う。
きっかけが優しさでも打算でも世間的理想でも、自己を疎かにした選択を重ねた先で雁字がらめ途方に暮れて、思考が作り上げた足枷の原因と責任を、大切な存在に転嫁してしまうことが私は恐ろしい。
「あなたは強いから、自由だから、きっとあなたには分からない」
そう言われて辛辣な正論で射抜いてしまいそうになることが、私が強くはない証左だ。
不明瞭なものを尺度にしても永遠に一致しない比較を続けても、
絡みつく枷は重く頑丈になるだけで、自分以外には解けない。
「誰にも忖度しないなら、本当はどうしたいのか」
譲れないものを選んで、後悔が少ないほうを選ぶ。
もしも「わがままだ、勝手だ、ずるい、許さない」と妬む声が聞こえたら、一緒にブルーハーツを口ずさもう。
かき消すほどに、泣きながら笑いながら。
「そんなことはもうどうでもいいのだ」
強くなんてなくても、それだけでいい。