あの窓辺の、置き手紙10

夏が苦手な理由はいくつもあるけど、その最たるものが誕生日。
生まれた日が太陽照りつけ命みなぎる真夏だろうと、一番好きな季節は白く厳かで静かな真冬。
早く少しでも大人に、とジレンマを抱えて若年期を過ごし、
今になっても歳を重ねるのが嫌だとはたいして思わない。
きっといつもと違う日の過ごし方がわからないのだろう。
何をするでもないのに、しなければならないわけでもないのに、
とにかくざわざわする心の鎮め方に毎年苦慮しては、
穏やかに過ごす方法を試行錯誤し、翌日にようやくほっとする。

「おめでとう」と夏に連絡が来て
「おめでとう」と秋に返すのがお決まりになった人に秋の連絡をしなくなったのは、
忘れたりどうでもよくなったからじゃない。
ただ、お互いの誕生日しか連絡を取り合わないことはやめてしまいたかった。
始まりがどうであれ次第に「何だか少し疲れるな、でも急にやめたら傷つけるかな」
などと気力を蝕む気遣いで温かく柔い気持ちが霞むなら、
それはもう相手を想っての贈り物とは言えない気がした。
特別な日だけに贈り合う祝いの言葉より、どう転ぶか分からなくても、好きな時に言葉を交わし、
特別な日を特別視しなくても破綻しない気楽さが欲しい。
その提案をいつどう切り出すべきだったのか、肩の荷が降りただろうか、それともただ傷つけただろうか、
今年の夏が終わる今もまだ分からない。

誕生日はいつかと脈絡なく聞かれると、つい身構えてしまう。
干支がなんだ星座がなんだ血液型がなんだとか、
先入観を人事評価に充てられるのは不本意で、深く追求するなら掌握されるようで心地悪く、
さらりと流すならまだしも、どうにも面倒になってきた。
濁してもぼかしても日付を訊かれたら、
「やめ時のわからない気の遣い合いが知人の分だけ増えては大変でしょう」と答える。
それでもなお「そんなの全然大変じゃないよ」と言う人がいるように、
特別な日に特別なことをされるのが嬉しい人間ばかりじゃない。
気心知れた仲の人が覚えていてくれたらそれで充分で、
もしもいつもと違う贅沢を求めるなら自分の機嫌は自分でとる。

1年のうち1日だけ誰かにとびきり幸せにしてもらうことを期待するより、
平坦な毎日の中の「ちょっと嬉しい」を、自分で見つけられるようにしていたい。
今日がなにかの日でも、誰かや自分の誕生日でも、そのどれでもなくても。
目についた花やお気に入りのお菓子、
たまたま見かけた「あの人が好きそうなもの」、
読んでも読まなくてもいい他愛のない置き手紙、
「贈る」というほどのものでもなく、受け取った相手の表情が少し綻べばそれでいい、そんなもの。
自分が穏やかで健やかでなければ為し難い小さなお裾分けをケの日に自然とできること。
また夏を経て自分に望むのは、そんな歳の重ねかた。

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