あの窓辺の、置き手紙1

「被った猫が十二単衣なみに重くて、メンタル費用対効果が低い」
個人的にSNSを長く遠ざけてきた理由がそれで、
思いきってネットに一軒家を築いてからは等身大でいられる解放感に一層拍車がかかった。
不特定多数な大勢を前に言葉を選ぼうとすると、考えるうちに色々と着込んでしまう。
だから、オンラインでの私の語調は最初から誰に向けるつもりもなく素っ気ない。
「読みもの」だから「読まれる」ことが前提なのだけど、「読んでいただく」のは違う。

例えば、JAZZが流れるようなしっとりと静かな喫茶店。

光が柔く差す窓辺に佇む、猫脚が素敵なコンソール、
その上にある、表題のないノート。
通り過ぎるほどさりげなく、触れていいのか迷うほど厳かにあって、
肩書き不明なお客同士が手にとっては読んで書いていく、交換日記のような。
そこには確かな目的もなく、行きずりのあの人が再び読んで返事を書く約束もなく、
誰か1人のためでも、不特定多数の大勢のためでもない。
紙片にささっと書いた置き手紙のように、忘れることもできるし、留めおくこともできる。
そんな存在、それくらいの状態が、なんだかとてもちょうどよく感じる。

「いつでもできる」と思っていつも後回しにしてしまう、
定義が曖昧な行為や存在が無自覚にも自己を自己たらしめていて、
丁寧になんて暮らせなくても、なんの肩書きも被り物も役目もない「ただの自分」でいられる時間を大切にしたい。
あの窓辺でひとりそっとノートを開く、あのひとときのように。

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