年を重ねたら鋼のメンタルを手に入れて、理不尽も不機嫌も躱して闊歩する。
そんな風になりたい、なれるはずと思っていたらそうでもなくて、大して本質は変わらない。
嬉しい時は零れ悲しい時はこみ上げて腹が立てば遣る瀬無く楽しい時は小躍りし、
起伏の扱いや大切なものの取捨選択の方法を、試行錯誤覚えていくだけ。
子供のころ「傷ついたり困ったりしない」と完全無欠に映っていた大人たちはみんな人間で、
考えてみれば当たり前のように、自分の未来は自分の延長線上にあった。
強くなりたいとか強くありなさいとか、
漠然とした憧れと現実の乖離に打ちひしがれては自己嫌悪して、
抱き込んだ感情と思考が楔のように内へ食いこみ、ある日バランスを崩してバキバキと人知れずどこかが折れる。
それを弱いと言うなら、強さとは感情も思考も持たないことを言うのだろうか、
そう思えても、叱咤激励する相手と議論を応報する余力も、
傷付けない胆力も持ち合わせがなく、ひとり歯噛みしては震えていた。
堅牢であること、不動であること、柔軟であること、
再生すること、不滅であること、千変万化なこと、
強さにもきっと色々あって、他者が憧れるそれも自分が憧れるそれも、
各々の性質に合うそれも、きっと全部別々のもの。
それどころか都合によって表裏一体で、頑固だなんだと言われもする。
実態が曖昧なまま理想だけを押し付けて膨れ上がった偶像、そこにしがみつく人心の握力とは裏腹に、
強いだの弱いだの、なんてふわふわでそよそよの、いい加減な評価なのだろう。
「強くなるにはどうしたらいいの?」
真剣な面差しに向かってあっけらかんと「強くなんてならなくていい」と応えたことに我ながら驚いて、
期待を裏切られた相手とふたり「は?」と顔を見合わせ笑い出してしまった時、
あれほど強さに執着していた過去が馬鹿馬鹿しくも報われたような心地がした。
今どき家電ですら「強か弱か」の二択以上に多様性と形容詞を備えているのに、ことは主体性のある生物の話、
他人が求める強弱を求められる時に期待通り再生して差し上げる必要性が、どこにあるのか。
どうありたいのかは、己の言葉で決めればいい。
自前の定規で推し量ることが相手を知る第一歩だとしても、
自分にとって都合よく最適解なもので他者を評価することもその逆も、不可能で意義がない。
何のために生きているのかなんて未だにわからないけれど、
少なくとも他人の定規に収まるためではないことは確かで、
それならせめて、自身を心地よく思えるようにありたい。
おとぎ話の中に憧れた全方位完全無欠のヒーローにも、
不特定多数の理想を一身に背負った隙を許されない偶像にも、
例え目の前の大切な人に「かくあるべき」と説かれても、
しなやかに穏やかにたおやかにしたたかに
「それはそれ、これはこれ、あなたはあなた、私は私」とそう言って、
時に厄介なほどの感受性も思考も携えたまま、この足元に延長線を敷きながら。