あの窓辺の、置き手紙12

なにか大きな影響が出るほど困ることはなく、物足りない気がしてもそれが何なのかは判然としない。
喉に刺さった小骨ほどには違和感を主張するくせに否応なく朝と夜が来て、せわしなく過ごすうちぼんやり薄れていってしまう。
何か忘れてる見落としてる気がする、だけど今は構ってられない。
いつでもいいし、いつでもできる。
きっとそのうち思い出すだろう。
そうやって後回しにするうち、何に対してそう思っていたのか、そんなに大事なことだったのか、
この疲れを癒すよりも優先だろうかと、後ろへ奥へ隅へ追いやって霞がかり埃をかぶる
あってもなくても、してもしなくても、どちらでもいいもの。

楽しみにとっておいたお気に入りのお菓子
ゆっくり深く呼吸したくなる香り良いお茶
剪定ついでにドライにした植物
それを大らかに受け止める蚤の市で集めたガラス
趣味というには違和感がある内省を兼ねた行為
何度顔面に落としても懲りない寝る前の読書
大切な存在とただ隣にいるだけの時間
ふと想う人への書き出せない手紙
どれもこれも最優先でも必須でもなく、なければ気がふれるほど執着してるわけでもない。
なのに疎かにし続ける日常はたちまち味気なく無頓着で、
タスクをひたすらこなす容量不足の心身に鈍く重く追い打ちをかける。
一体誰が、誰の時間を生きているのか。

尺度が他人の価値観に委ねられ、
あるはずのない正解を探って自分の暮らしを評価し右往左往する滑稽さを思えば、
何もかもが整ったかのように形容された暮らしこそ、なくても何ら支障がない。
誰にも会いたくない何もしたくないと塞ぐ日があっても、
眼鏡をかけたまま布団に沈んで迎える朝があっても、
飾った生花を意図せずドライフラワーにしてしまっても、
不完全な自分に腹を立てるほど完全を目指してるわけでもないのだから、落ち込むほど大したことじゃない。
それよりよほど見過ごせないのは、疲労を理由につい犠牲にしてしまう「いつでもいいけど、どうでもよくはないこと」に思い巡らせる時間と余裕がないこと。
「そんなことに構ってられるマイペースさとゆとりが羨ましい」と言われても、大切なものの小さな変事に気付かず、あるいは見て見ぬふりをして後悔する、そんな自分にこそうんざりする。

あまりに身近でそこにあることがさも当たり前に思えるものを、自分の裁量で改めて考え、選び、決めることが個人をより当人らしく形作っていくのだとしたら、
疎かにしたり侮ったり過信したりせず、かといって依存や強迫を覚えるほど激情に傾倒もしない、
そんな不即不離のひとつひとつが、人の芯や根になっていくのかもしれない。
休憩のコーヒーも部屋に飾る花も、寝る前の読書もあの人への返信も、それに関わる時間も、
あってもなくても、してもしなくても、いつでもいい。
だけど選べるのなら、諦めに無関心を装わず選びたい。
大切なほど仕舞い込んでは見失い、振り切れかねない脆い気持ちを、掬っては確かめるように。

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